昭和49年01月10日 朝の御理解
御理解 第5節
「これまで、神がものを言うて聞かせることはあるまい。どこへ参っても、片便で願い捨てであろうが。それでも、一心を立てればわが心に神がござるから、おかげになるのじゃ。生きた神を信心せよ。天も地も昔から死んだことなし。此方が祈るところは、天地金乃神と一心なり。」
金光様の御信心を頂いておるというても、片便の願い捨て的な信心をしておる人が沢山あります。片便の願い捨てという信心でも、これは金光様には限りません。一心を立てればわが心に神がござるから、おかげになるのじゃと。そういうおかげを頂いて、そういうおかげに甘んじて、金光様の御信心が終わったら、愈々金光様の御信心の値打ちはない。もの言うて聞かせるということは、お取次ぎを願い、お取次ぎを頂いて帰ると言う事だと思うです。お取次ぎを願う、それまでだったら片便の願い捨てです。
どうぞあぁなります様に、こうなります様にと、自分の思いの丈願いの丈を、お取次ぎを頂いてお願いをして頂くだけなのです。お取次ぎを願わせて頂いて、又そのお取次ぎを頂いて帰るという処に、片便の願い捨てでない信心だなと分らせて貰わなきゃならん。幾ら毎日お参りをしてお願いをして、そして御理解だけは頂いて帰りよりますと言うただけではいけん訳ですね。聞いて帰ると言う事は有り難いけれども、それを信心の行の上に表していかなければ。
生きた神を信心せよ、天も地も昔から死んだ事なし。此方が祈る所、天地金乃神と一心なりと言う様な信心に育って行く。私は是は教祖金光大神様だけじゃないと思うです。此方が祈る所、天地金乃神と一心なり。それは私大坪総一郎が祈る処、天地金乃神と一心なりと言う事になって、皆さんの一人一人でもそうです。私が願っておる事は天地金乃の神と一心だ一つの心だ。天地金乃の神様が思うてござる事が自分の思いです。
自分の願っておる事が、天地の親神様の願いでもあると言う様な、段々高度な信心になって行かなければいけない。ただ自分の願いだけ。それであったら天地と一心と言う事は言われません。自分の願いが天地金乃神と一心と言う。只自分一家の信心が、終始してしまう嫌いがあるです、片便の願い捨ての信心は。この寒修行が始まって、日々色々なお届け、お取次ぎをなさる方がありますが。
中に世界中の氏子に平和な心、和賀心を与えて下さいという意味の事をお初穂に書いて、世界中の氏子に平等なおかげを授けて下さいという意味の事を書いて、毎日お届けする方があります。最後の平等におかげを下さいと云うことは、私は意味がよく分りません。天地金乃神様、教祖生神金光大神の御理解を頂きますと、神は平等におかげを授けるが、受けものが悪いから、おかげが洩るのじゃと仰るのですから。
平等におかげ下さいという意味の事は、私はどういう真意か、それを解しかねるんですけれども、そういう願いですから、お取次ぎさして頂いております。成程世の中には様々な殿様、暮らしをしているような人があるかと思うと、非人乞食の様な生活をしておる人もある訳ですから、神様が平等におかげを下さってないんだと言や、それですけど実を言うたら、平等におかげは授けてあると仰る。
けれども受けものが悪いからおかげが漏るのです。ですからそれは、私はどうと言う事は、その真意の処は分かりませんけれども、世界中の氏子にです。平和な心和賀心を与えて下さい。それは私も含めてと云う意味でしょう。そこに世界真の平和を、具体的に祈っておる訳ですけれども。そういう祈りの為に、この寒修行が当てられておる。そういう大きな願いの為に、その修行がなされておる。
是なんかは天地金乃神と一心也という信心に、一歩前進しておられる姿だと思うですね。天地の親神様の確かに願いであろうと思うです。世界中の氏子が本当に和賀心を目指して、世界に和賀心時代を敷くとか、創るとかと言う様な意味の事を合楽で申して居りますがです。それが天地の親神様の心であり、願いである事だけは間違いないと思うです。ですからその事を願うと言う事は。
天地金乃神と一心と言う事になるでしょうが。折角信心させて貰うなら、私はその願いでもやっぱり、高度な飛躍で行かなければ駄目だと思う。世の中の難儀を見るにつけです、ああ本当に是は私が体験する事は、和賀心になろうと、本気で、焦点を置き換えさせて頂く。本気で信心を頂かせて頂こうと。真の信心を頂かせて頂こうと、願わせて頂く所、金光様の御信心は、その焦点は和賀心です。
本気で真の信心を頂きたいと言うなら、本気で和賀心にならせて頂く事の修行であり、そのためのお話を頂くであり、その為に御祈念をするのである、お参りをするのであるという事になる。私が細やかでも、和賀心にならせて頂く事を精進させて頂いておれば、成程教祖様が仰る様に、おかげは和賀心にあると仰るが、ありとあらゆる人間の幸福の条件というものが、これには足ろうて来るのだという体験を持って、この事が祈れる様になった時が、私は本当言うたら天地金乃神と一心だと思うです。
ただ願っておるだけではなく、自分自身がまず頂かねばならん。そして和賀心と云うものにはです、どういう他の宗教の例をもってすると、様々な因縁とか罪とか、穢れとかと言う様な事の為に、人間が難儀をしておるんだと。だからその因縁が消えなければ、罪、穢れが祓われなければという為に修行しておるのですけれども、金光様の御信心はどういう難儀の基というものは、それはあるか分からん知らん。
私にも判らないけれども、金光様の信心はどう言う巡りの深い、どういう難儀の基を持っておる人であっても、和賀心という心を目指させて貰うて、それに私が五つの願いが、ここで皆さんが唱えておられ、私も日に何回となく、神様に向かうたんびにこのことは繰り返し願わせて貰うんですけれどもです。あの願いをさせて頂くようになって、私は決して人を責めないと言う事にしております。どうぞ二番目にある所の、家庭に不和のなきが元と仰る。どうぞそのおかげが頂きたいんです。
頂きたい為にはです人を責める様な事、人の足元どん見る様な事では、おかげを頂かれんと思うから、徹底して人を責めない事に決めております。おかげで以来あれ以来私は責めません。その心が和賀心であるんだなぁと、自分で最近気付いております。それだけじゃありません、まだ幾らもありますけれども。そしてその和賀心にそういうおかげが伴うて来るんだと言う事実を、私は毎日体験させて頂いておる。
だから私の様な、こんな心持ちだけにでも、皆さんがなられるならば、世の中は平和に行くだろう、家庭は円満に行くだろう。そして人間の幸せの条件が足ろうて行くだろうと確信が出来るから、それを祈らなければ居られない。世界の氏子に和賀心を与えて下さい。平和な心を与えて下さいと願うのも、まずは自分が頂いて、確信をもって願わせて貰う。そういう事が天地金乃神と一心というのはそうだと思うです。この方が祈る所天地金乃神と一心なり。
ですから信心が育って参りますと、やっぱり世界中の事も祈らなきゃおられん。勿論世界中の氏子の精霊、御霊様これはどれだけあるやら、その御霊様の事まで、この頃私は本当に切実に願わなければおられない心の状態が開けて行きつつあります。それがです片便の願い捨てであっては、そういう心に気が付きません。唯自分の我情我慾の丈を述べて、それでもやはり、和賀心に神がござるから、一心を立つればおかげになるのじゃというおかげにはなって行くんです。
金光様の信心しておるから、片便の願い捨てじゃないかと云うと、金光様のご信心を頂いておっても、教えを頂き教えを行じないとするならばです。それは片便の願い捨てと同じことです。一心を立てるからおかげは頂きます。それは参らんでも御理解頂かんでも、一心を立てて拝みよりゃおかげを頂きます。だからそういうケチなおかげから、もちっと神様も喜んで下さる様なおかげを頂きたい。それにはお取次ぎを願わせて頂くと同時にです。願う事はどんなことを願うてもよい。
けれどもそれに対する処のお取り次ぎを頂いて帰ると云う処がなからにゃいけん。皆さんは今お取次ぎを頂いて帰って下さる為に、私はこうやってお話をしている訳です。なるほど先生の云う通りだ。今日は、これを一つ、本気で頂こうと言う事になって来た時に、お取次ぎを頂いて帰って、それを行じたとい鵜事になるのです。それを行じておらんとです、信心が成長しないです育たないです。
昨日午後の奉仕をさせて頂いておる時でした。寒修行がこうして皆さん、今年は私は特に今年の寒修行は有り難いと思う事は、それぞれ一人一人が寒修行に対する工夫が、凝らされておられる事が特徴です今年の寒修行は。是は本当に私は有り難いと思います。皆さんのお取次ぎさせて頂きよって、これだけなら日々でも出来ておる事。けれども寒修行の間だけは、せめて様々なそれなりにです工夫しておられると言う事。
矢張り工夫しなければいけません。話を聞くばかりが能ではない、わが心からも練り出せと仰る。練り出させて頂いての寒修行に取り組んでおられる。それが非常に今度の寒修行の特徴だと思うております。私がお取次ぎさせて頂いてそれを感じます。朝のお参りだけではありません、昼もやっぱり寒修行という修行の為にお参りをして来る方が御座います。所が寒修行が始まりましたけれども。
当然合楽の幹部とか中心とかという方達で、この人達は義理にでも出て来て貰わにゃいけないのだけれどもと思う人達が、全然出て来ない。然も本当に勿体ない様なおかげを頂いておる。折角寒修行が始まる、修行と言う事は一年の中に、冬なら冬の修行が始まる、その修行を全うしとかないと、目の荒い信心になって来るです。まだ他にも色々あります極端に云うと、昨年は頑張ったから今年はおかげを頂いたけれども、今年も頑張っとかんと、又今度はおかげは受けられんぞと言う様な感じです。
ですから私その事が一寸寂しかった。あの人達出てこんちゃどういう訳じゃろか。然もあれだけのおかげを頂いておってと、思わせて頂いたら御心眼に、大きな一丈位あるような大きな熨斗を頂いた下手な絵を書いた。芝居の引き幕なんかにあるでしょう。大きな熨斗芭蕉の葉のごとこうそれが一丈位ある。それに一尺位な人間がです、ここに虫が這うた様に、ちょいと書いとるですけどこういう風に。それに止まっとる一寸。丁度昇っておる様な感じでね。
それを頂いて私は思わせて頂いた。私は本当に思うのに、信心そしておかげが付いてくると言う様なおかげでなからにゃいけませんね。信心が出来ずにです神様が蓮根食うて下さって、おかげを下さっておる方達ばっかりです、今寒修行に参って来んとは。私が心に懸かりながら、あの人はあれだけおかげを受けておるのに、参って来にゃ本当に相済まんのだけれどもという人達は、おかげは本当に頂いておるけれども、信心が出来たから、おかげを受けておるとじゃない。
神様が蓮根食うて下さる様にして下さっておるおかげなんです。だからそういう人達に、あんたはどうして参って来んかと言や、その人達は私の言う事を聞かん事になる。先生があげん言うけん、何べんか位参らじゃこてと言うて、参って来るに違いありません。けれども、そう言う事をしよるとですたい、こげん途中から下に落ちる様ですから怪我をする返って。言われたけん信心する様な事では返って怪我をする。だから私はこの事に就いての御理解を、ここにこんな風に書いた。
神様が蓮根食うて下さったおかげにしがみついておる。自分がその店を店だけじゃない。事業なら事業でもよい。おかげを頂いておる事だけは間違いないから、自分がそれを外したら、そのおかげにしがみついて、外しきらんでおるという訳なんです。おかげにしがみついておるのを図に描いた。此の絵を描いたつを絵の説明をしている訳なんです。神様が蓮根食うて下さった、おかげにしがみついておるの図であると。今これを離したら怪我をする。本人が大きく育つを待つ他はなしと書いておる。
だからこのおかげが一丈あるならば、やはり一丈の太さに、その人が育たなければならん。勿論神様が蓮根食うて、おかげを下さる程しの方達ですから、神様が何かそこに思惑があるに違いはない。この氏子はと願いをかけておられるに違いはない。ですから問題はその信者氏子達がです、育つことを願う以外はない。それを責めたりどうして参って来んかと言や、参って来るかも知りませんけれども。それでは返って怪我をすると。僅かばかりのおかげにしがみついておる。朝参りをしよるとやっぱ眠たい眠いと。
自動車の運転に誤りどんがあっちゃならんそういう心配をする。自分がおらなければ自分の店は、自分の目が届きよらなきゃ立ち行かん。そういう風におかげにしがみついとる。頂いておるおかげにしがみついとる。だから今私共は自分の信心なりのものに、例えば五の信心が出来たら、五のおかげと言う様な、バランスの取れたおかげを頂いて行くと言う事が、どんなに素晴らしい事かと言う事か分かる。
大変おかげを受けながら、寒修行にも出て来ない氏子の事を、お願いさせて頂いた時に頂いたお知らせ。だから取次ぎの者にも責任があると。私自身にも責任がある。だからお詫びをしたり、神様私が育てようとしても育たんのですから、神様よろしゅうお引き回しを頂きます様にと、言うて願う以外にない。さぁ参れしゃっち参れてんなんてんて言いよると参りよったら、返って怪我したと云う事になったんではいけません。
勿論怪我という事はそのために、返っておかげを落したと言った様な事に、なってはならんと言う事です。是なんかは片便の願い捨て適なおかげを頂いておるから、そういう結果しか生まれて来ないのです。お取次ぎを願ってお取次ぎを頂いて帰る。それこそもの云うて下さっておる、それを聞かせて帰らせてう様な信心からです。信心に足ろうたおかげが受ける様になって来る。それが愈々五よりも十、十よりも二十という様に、育って行くという処に御道の信心はあるのです。
今日は片便の願い捨てと言う事に就いて、教祖は金光様の信心をしておれば、片便の願い捨てではないかと言うとそうでない。金光様のご信心を頂いておっても、沢山な人が唯お取次ぎをお願いしよるというだけの信心であったら、片便の願い捨てと同じ事。それでは信心が成長しない。信心とおかげが伴わない。それでも一心を立てればおかげになると仰る。わが心に神が御座るからおかげになる様にです。
それでも矢張り、おかげは受けますけども、お取次ぎを頂いて帰ると言う事になりますとです。私は最後の処の天地金乃神と一心なり。天地金乃神様の思い、又は天地金乃神様の願いが分って来る様になる。だからその思いに添わせて頂かなければおられないという処から、天地金乃神と一心と言う信心が生まれて来る。そこからしか真実の神徳と言うものは頂かれないと私は思います。
金光様の信心をしておっても、片便の願い捨てにならん様に、私は精進させて貰いたい。そしてお取次ぎを願わせて貰い、お取次ぎを頂いて帰るという信心。それを自分の信心。その信心が育って行くに従って、おかげもそれに従うて来ると言う様なおかげを頂かせて貰う。寒修行の初日の日でした。おかげを頂くから信心をしておるというのではなくて、信心をしておるから、おかげがついて来るという信心に、いよいよ進まなければならんと思うですね。
どうぞ。